Horse Racing Cafe2号店(仮設)

Horse Racing Cafeの2号店(仮設)的なもの

Urban Seaの軌跡(前編)

 先日行われた英2000ギニーは2歳時以来の休み明けながらSea the Starsが見事な勝利。Urban Seaにとって4頭目のGⅠ馬誕生となった。それを祝してか巷ではUrban Seaの偉大さについて語るのが密かなブームになっているようなので、その流れに乗じてUrban Seaの偉大さについて私も今更になってしまうが書き記しておこう。。

Urban Sea

 まずは現役時代のUrban Seaについて。
 1989年2月18日、Urban SeaはAllegrettaの5番仔として仏競走馬生産者協会会長のミシェル・エノシュバーグ氏が経営するアメリカのMarystead Farmで生まれた。父はサラマンドル賞などを制したMr.Prospector産駒のMiswaki。母のAllegrettaは現役時代に英オークストライアル2着などの実績を持つ牝馬であり、Urban Seaの兄にはリュパン賞で5着に入ったIrish Allegre、妹には仏ダービーAnabaa Blueの母となるAllez Les Trois(自身も仏GⅢ勝ち)や弟に英2000ギニーを制したKings Bestを送り出すなど繁殖牝馬としてのポテンシャルはかなりのものであった。
 Urban Seaは誕生後に仏に渡り、90年8月に行われたドーヴィルイヤリングセールに上場されることになる。ここでUrban Seaは当時バブル景気に沸いていた日本人の会社経営者によって28万フランで落札されている。この日本人はこのセールでは高馬含め10頭以上の1歳馬を購入しているが、Urban Seaもその内の1頭であった。
 さて、オーナーも決まりデビューに向けて調整が進められるかと思われたUrban Seaだが、翌91年にオーナーの経営する会社が倒産、全ての所有馬を売却する事態に陥ってしまうことになる。この時、Urban Sea含め日本人オーナーの全ての所有馬を買い取ったのが香港で会社を経営している実業家、David Tsui氏であった。その後、Jean Lesbordes調教師に預けられたUraban Seaはデビューに向けて順調に調整され、9月のエヴリ開催でデビューを迎えた。初戦こそ2着に敗れたものの、2戦目の牝馬限定戦で順当に初勝利を挙げたUrban Seaは続くイヤリングセール出身馬限定レースを4着に敗れると休養に入り、3歳シーズンに備えることになる。
 3歳初戦は準重賞のアンプルダンス賞となったUrban Seaだが、和田共弘オーナーが所有するKenbu(シンボリスウォードスイートオーキッドの母)の圧勝を尻目に、自身はスタート後落馬をするアクシデントに見舞われてしまう。落馬の後遺症も心配されたUrban Seaだが何ら馬体に異常は無かったようで、そこから中1週で仏1000ギニーの前哨戦であるグロット賞(仏GⅢ)に出走(6着)する。その後も独に遠征し独1000ギニー(GⅡ)3着、仏に戻って準重賞を勝った勢いで出走した仏オークス(GⅠ)はJolyphaの6着、ミネルヴァ賞(仏GⅢ)3着、準重賞1着、ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)3着とそこそこの競馬はするものの重賞ではもう一歩の成績。何かのきっかけになればとの思いで行った北米遠征でもE.P.テイラーS(加GⅡ)2着、イエローリボンS(米GⅠ)9着と勝ち星を挙げることはできず、結局初重賞制覇は4歳シーズンに持ち越しとなってしまう。
 4歳初戦に選ばれたのはエクスビュリ賞(仏GⅢ)であった。本格的に平地シーズンが始まっていない時期の重賞でもあり、割と楽なメンバーを相手にUrban Seaは念願の初重賞制覇を達成した。だが、Urban Seaは重賞制覇の勢いでオーナーのDavid Tsui氏の地元である香港シャティン競馬場で行われた香港国際C(GⅢ)に出走するも6着に敗れてしまう。その後、欧州に戻りGⅡを2戦するも勝ち星に恵まれず、また3歳時の様に歯痒い競馬を続けることになるのかと思われたUrban Seaだが準重賞に出走しそこで強い勝ち方をすると、そのままの勢いで臨んだ8月のゴントービロン賞(仏GⅢ)で2度目の重賞制覇を達成。デビュー以来初の連勝と上昇ムードの中での凱旋門賞挑戦となったのだった。
 93年の凱旋門賞において勝負を分けた一つ目のキーポイントは馬場状態であったといえよう。当日の馬場状態はHeavy、ペネトロ指数は4.4と99年Montjeuが勝利した年(この年は5.1と近年でも稀に見る不良馬場であった)ほどではないにしても過去20年をみてもここまで馬場状態が悪かった凱旋門賞はほとんど無い。出走馬の中でもこの道悪に悩まされた馬がおり、1番人気に推されていたHernandoもその中の一頭であった。
 二つ目のキーポイントは道中の位置取りである。前述したように馬場状態が非常に悪かったことに加え、前日に内ラチ沿いの仮柵がはずされた影響もあり、少しでも良い馬場を走りたいと多くの出走馬が内のグリーンベルトに殺到し、不利を受けた馬も少なからずいたのだ。鋭い末脚で2着に追い込んだWhite Muzzle、4着になったIntrepidity、5着のOnly Royaleにしても一度は直線で前が塞がる不利があり、そこから立て直した影響が大きかった。この3頭に騎乗した騎手の誰もが敗因に直線での不利を挙げており、それさえ無ければ勝負は際どかったというコメントを残しているのは印象深いところだろう。
 そのような中、Urban Seaは道悪を苦にすることも無く、道中も常に3〜4番手を追走し直線でも何ら不利を受けることなく自身の力を100%出し切ることに成功した。Eric Saint-Martinによるエスコートは彼が凱旋門賞初騎乗(GⅠ未勝利でもある)であるとは思えないほど完璧だったのだ。だが、この完璧すぎるエスコートゆえにUrban Sea自体の評価はレース後も決して高くはなかった。確かにAll Along以来10年ぶりの牝馬による凱旋門賞制覇は評価されるべきものである。だが、同じ凱旋門賞を制した牝馬でも前述のAll Alongが132、82年Akiydaが129、80年Detroitが128といったレーティングであったのに対し、93年Urban Seaのレートは125と決して高くない数値であった(もちろん80年代に比べ90年代に入ってレートが抑え気味になっていった傾向も踏まえなきゃいけませんが)。そのため、その後のJC挑戦に表れている様にUrban Sea陣営にとって凱旋門賞後の最大の目的はこの馬の力を正当に評価してもらうことこそにあったのではないだろうか。
 残りのシーズンはJC1戦に抑え、5歳になっても現役の道を選んだUrban Seaはシーズン初戦となったアルクール賞(仏GⅡ)を勝ち、凱旋門賞2連覇含め大レース制覇に向けて順当なスタートを切った。だが、続くガネー賞(仏GⅠ)3着を経て出走したコロネーションC(英GⅠ)4着後、球節に故障を発生し引退を余儀なくされてしまう。こうして、Urban Seaにとって自身の力に見合った評価を得る戦いの舞台は、「母」としてのそれに移ることになったのである。
 
 予想外に長くなったので前編・後編に分ける。直仔なんかの活躍を書いた後編はなるべく早く書くつもり(たぶん来週中になりそうだけれど)