Horse Racing Cafe2号店(仮設)

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社台SS供用種牡馬編纂(前編)

 先日、社台SS供用種牡馬の2010年種付け頭数が発表された。キングカメハメハの266頭を筆頭に、200頭越えは全部で9頭。スタリオン全体での種付け頭数は4000頭に迫る数字となり、2010年の日本のサラブレッド生産頭数が7473頭、2011年もそれに近い数字になることを踏まえると、既に日本で産まれるサラブレッドの半数以上が社台SS供用種牡馬を父に持つことになる。
 このように、既に日本のサラブレッド生産の行く末を握っていると言っても過言ではない規模を誇る社台SSだが、早くも2011年シーズンに向けて今年のキングジョージを圧勝したHarbingerの導入を発表するなど着々と次なる手を打ちつつある。一層巨大になりつつある社台SSだが、その歴史をまとめておくことはこれからの日本の競馬の方向性を考えていくにあたり決して無駄にはならないと思う。そんなわけで自分では力不足であることを承知の上で社台SSの歴史について簡単にまとめてみるのである。

1980年以前

 1955年、繁殖牝馬8頭と共に独立を果たした吉田善哉氏は62年、仏で供用されていた種牡馬ガーサントを購入し、社台ファームに導入することに成功する。既に欧州で種牡馬として結果を出していたガーサントは日本においても初年度から活躍馬を輩出。社台ファーム生産馬だけでもコウユウ(68年桜花賞)、シャダイターキン(69年オークス)などの活躍馬を出し、69年にはリーディングサイヤーに輝いている。ガーサント導入後も社台SSは毎年ほぼ1〜2頭のペースで種牡馬を新たに迎えている。しかし、75年に導入されたノーザンテーストまで残念ながらガーサント級の活躍をした種牡馬には社台SSは恵まれなかったのだ。
◆社台SSが導入した主な種牡馬〜70年代◆

馬名 備考
1965 ハッピーオーメン 代表産駒:キクノハッピー(71年オールカマー他)
   ラティフィケイション 代表産駒:ハーバーローヤル(71年日本ダービー2着)
1966 グレイモナーク 代表産駒:クリユタカ(73年中山大障害)
1967 ナスコ Bold Rulerの全弟
1968 マリーノ 代表産駒:ダンゲンジ(73年日経賞)
1969 バウンティアス 代表産駒:バローネターフ(中山大障害5勝)
1970 ヒッティングアウェー 代表産駒:オキノサコン(80年中山大障害)
1971 ハイハット 代表産駒:カンパーリ(78年日本ダービー5着)
1972 ボールドアンドエイブル 代表産駒:ニチドウアラシ(80年マイラーズC他)
1973 ガンボウ 代表産駒:Pistol Packer(71年仏オークス他)
1974 エルセンタウロ 代表産駒:ニチドウタロー(80年天皇賞・春他)
   モデルフール 代表産駒:モデルスポート(78年牝馬東京タイムズ杯)
   ラッサール 自身は73年アスコットゴールドC勝ち
1975 ノーザンテースト 言わずもがな
1976 レイズアボーイ 現役時代の馬名はレイズアレディー
1978 オフィスダンサー 代表産駒:特になし
   ノースオブザロー 代表産駒:特になし
   ハンターコム 代表産駒:ダイナコスモス(86年皐月賞)
1979 ニゾン 代表産駒:マウントニゾン(87年日経賞)

 70年代は社台ファームにとって言うならば冬の時代であった。生産者成績は西山牧場に遅れをとった73年以外はリーディングブリーダーの座を譲ることはなかった。重賞競走の勝ち馬も毎年のように出ていた。しかし、八大競走勝ち馬はシャダイターキン後はニチドウタロー(80年天皇賞・春)まで出ることはなかった。ハイセイコータケホープトウショウボーイテンポイントマルゼンスキー錚々たる面々が凌ぎを削った70年代の競馬にあって、社台ファームはその争いをあくまで、ただただ見守ることしかできなかった存在であったとも言えるか。もちろん、70年代の社台ファーム生産馬不振の原因を突き詰めてみると、上記した輸入種牡馬の不振が最も大きな要因であると考えて良いであろう。73年にガーサントが種牡馬を引退して以後、ノーザンテースト産駒が競走年齢を迎えるまで屋台骨となる種牡馬の不在は、自牧場の繁殖牝馬の大半に社台SS供用種牡馬を付けていた社台ファームにとっては致命的でもあるのだ。だが、これらの種牡馬導入が社台ファームにとって全くの無駄であったかといえば、決してそんなことは無い。むしろ、確実にこれらの種牡馬はその後の“社台王国"を築く礎になっているのである。
 その際たる例が69年に導入したバウンティアスだろう。種牡馬としての実績は社台ファーム生産馬として中山大障害を制したバローネターフが目立つ程度の同馬だが、母の父としては宝塚記念2着のカズシゲ(父ボールドアンドエイブル)を出すと、カズシゲの弟ダイナガリバー(父ノーザンテースト)は社台ファーム、何よりも吉田善哉氏にとって悲願でもあった日本ダービー制覇を達成する大仕事をやってのけたのだ。
 バウンティアスの他にも72年に導入されたボールドアンドエイブルスクラムダイナ(父ディクタス)、ダイナサンキュー(父ノーザンテースト)、ミュゲロワイヤル(父リアルシャダイ)の母父となった。74年に導入されたモデルフールの代表産駒モデルスポートは競走馬としても優秀であったが、母としてもノーザンテーストとの間に言わずと知れたダイナアクトレスを送り出した。そして、ダイナアクトレスプライムステージを産み、サンデーサイレンスに初の重賞勝ちを贈ると、孫のスクリーンヒーローによって社台ファームに初のJC勝利を贈った。まだまだ例はある。エルセンタウロを父にもつアスコットランプはギャロップダイナハンターコム産駒のダイナドライブはノーザンドライバー、ヒッティングアウェー産駒のシャダイマインはダイナシュートをそれぞれノーザンテーストとの間に送り出したのだ。
 このように上記した種牡馬は“種牡馬"としては期待外れに終わった馬が多かったかも知れない。だが、確実に“母父"としてその存在を社台ファームに残したのである。

1980年代

◆社台SSが導入した主な種牡馬〜80年代◆

馬名 備考
1980 ディクタス 代表産駒:サッカーボーイ(88年マイルCS他)
   ソルティンゴ 代表産駒:スズパレード(87年宝塚記念)
1981 ルセリ 代表産駒:特に無し
1982 ルドゥターブル 代表産駒:特に無し
1983 リアルシャダイ 93年リーディングサイヤー
1984 ボアドグラース 93年リーディングサイヤー
1986 スタイヴァザント 代表産駒:ブラウンビートル(93年新潟記念)
   ミスターシービー 代表産駒:ヤマニングローバル(89年デイリー杯3歳S他)
1987 アレミロード 代表産駒:ヤマニンミラクル(91年京成杯3歳S)
   スリルショー 代表産駒:マイスタージンガー(93年関屋記念)
   ノーリュート 代表産駒:ブロードマインド(93年中山大障害・秋他)
   パドスール 代表産駒:タケノベルベット(92年エリザベス女王杯)
1989 ジャッジアンジェルーチ 代表産駒:ゴーカイ(00年中山グランドジャンプ他)
   トニービン 94年リーディングサイヤー

 80年代の社台ファームの歴史は前述したとおり、ニチドウタローによる天皇賞・春制覇によって11年ぶりとなる八大競走制覇を果たした瞬間から始まる。その後もアンバーシャダイシャダイアイバーなど産駒が次々と大レースを制し、種牡馬としてはいよいよ円熟期に入ったノーザンテーストらの活躍によって、名実ともに社台ファームは日本No.1の牧場へとなったのだ。
 一方、ノーザンテーストの栄光の裏でこの時期に社台SSに導入された種牡馬に不幸が多かったことも事実である。期待されて輸入されたソルティンゴは牧場側の単純なミスで生殖能力を失ってしまい、ルセリ・ボアドグラースは生殖能力自体に問題が存在した。特にソルティンゴについてはスズパレード、ラッシュアンドゴー、イブキラーゼンと僅か40頭ばかりの初年度産駒から日本ダービーに3頭もの産駒を出走させたのだ。後にスズパレード宝塚記念まで制してしまったのだから、もしソルティンゴが無事だったならばどれほどの活躍していたことか。牧場側の無念は想像するだにできない。
 さて、ここからは80年代の社台SSの特徴として2つの大きな変化を今回は挙げたい。まず1つ目の変化は言わずと知れた三冠馬ミスターシービーの導入である。この導入にはこれまでの社台SS、吉田善哉氏の方針からすると2つの点で驚きがあった。
 70年代〜80年代の日本競馬を最も支えた系統はプリンスリーギフトであると言っても過言ではないだろう。プリンスリーギフト種牡馬として初めて日本に導入されたテスコボーイは日本での初年度産駒から皐月賞ランドプリンスを出すと、その後もキタノカチドキテスコガビートウショウボーイなど70年代を彩る名馬が次々とその産駒から産まれた。それらテスコボーイ産駒の活躍に触発されたかのようにその後何頭ものプリンスリーギフト種牡馬が日本に輸入されたが、バーバー、ファバージトライバルチーフなど、どの種牡馬の仔もよく走った。言うならばプリンスリーギフト系は日本の競馬界にこれまでは欠けていた“軽いスピード"を伝えたのだ。こうして日本において大成功したプリンスリーギフト系であるが、吉田善哉氏はプリンスリーギフト種牡馬を決して社台SSに導入しようとはしなかった。それこそ南米から欧州まで世界中から、どんな血統でも導入していたのにもかかわらずである。
 “生産者は預言者でなければならない"、吉田善哉氏はこのようによく語っていた。つまるところ、生産者とは常に次の世代、次の世界を考えた上で手を打っていかねばならないのである。そうした考えにあって、日本競馬界で猛威を振るっていたプリンスリーギフト系は吉田善哉氏の目には「危うい」と写っていたのではないだろうか。大将格のテスコボーイトウショウボーイは農協組員でなければ種付けが許されないなど、プリンスリーギフト系は“お上色"がやや強かったことへの対抗心があったことも事実であろう。だが、ノーザンテーストで“当たり"を引いた後もそれに安住することなくディクタス・リアルシャダイなど次々と弾を打ち続けた社台SSにあって、今まで社台SSに欠けていたプリンスリーギフト系の最有力後継種牡馬であるミスターシービーを導入するということは、その結果は如何にせよ新しい血を牧場に導入するという観点からすれば善哉氏からすれば当然の結果なのだと考えられる。
 そしてミスターシービー導入における2つ目の驚きとは、ミスターシービーが社台SSにとって初の内国産種牡馬であった点である。ミスターシービー導入以前、社台SSに内国産種牡馬は全く供用されてはいなかった。それ以後もサッカーボーイまで内国産種牡馬が社台SSで供用されることはなかったのだ。ノーザンテースト直仔のGⅠ馬であり、シンジケートもすぐに満口になったと言われるアンバーシャダイダイナガリバーも他スタッドにスタッドインしている。その中にあって、内国産、そしてプリンスリーギフト系であるミスターシービーの導入を社台SSが決断したというニュースは生産者にも驚きを持って迎えられたのである。
 さらに80年代の社台SSのもう1つの特徴が社台SSにおける種牡馬導入の経緯の変化である。種牡馬導入の経緯としては
①当歳・1歳セールで購入 ex)ノーザンテーストリアルシャダイ
②競走引退後の権利購入 ex)トニービンキャロルハウス
③既に種牡馬として実績のある馬の導入 ex)ガーサント
 の3パターンを一般的に挙げることが出来る。この中で社台ファームが70年代から80年代にかけてよく用いた手法が、ノーザンテーストの例に代表されるような①であり、ノーザンテーストの他にもリアルシャダイ、レイズアボーイなどの例を挙げることが出来る。だが、80年代も終わりに近づくにつれて②の例が増加傾向になる。
 ①は当たりを引いた時のコストパフォーマンスは抜群だが、如何せん海千山千の1歳馬を購入することは様々な面でリスクを伴う。そして何よりも80年代初頭からシェイク・モハメドを初めとするアラブマネーが市場に入ることで、もはや良質な幼駒を安価な値段で落とすという当初の目的を果たすことが難しくなっていたのだ。それならば、既に十分な競走実績を持つ馬を現役上がりで購入したほうがコストパフォーマンスとしてもずっと魅力的であると考えるのは自然の理。プラザ合意後の急激な円高もこの考えを後押しした。このような流れの中で購入に動いたのがトニービンであり、ジャッジアンジェルーチ、そして日本競馬を根本から変えることになるサンデーサイレンスなのである。

 あまりにも長くなりすぎたので前編・後編に分けます。後編は近日公開・・・か?