謹賀新年
皆様、あけましておめでとうございます。昨年の更新回数は新年のご挨拶を除けばまさかの4回。今年もいったいいつ更新されるのか中の人さえよく理解していないブログですが宜しくお願いいたします。
とはいえ、いきなりの言い訳になりますが更新していないからと言っても寝ていたわけではありません。特に12月は安請け合いしてしまったお仕事をこなす日々。そのうちの一つは私の与り知らぬ遠い異国で配布されたとかなんとかという話もありますが、しっかりと皆様のお手元に届く作品も準備しております。
というわけで、Brain Squallの中の人である倉海柚多さん編集による競馬電子雑誌「よみうま!」の創刊号に「2011年海外競馬10大ニュース」を寄稿させていただきました。私の独断と偏見に満ちた寄稿以外にも「まったり血統派の茶飲み話」でお馴染みのりろんちさんによる「早田牧場略史」など大変読み応えのある内容となっていますので、寝正月の友にしていただければ幸いです。
今後とも「よみうま!」にご期待頂ければと思います。しかしながら、私の2012年の目標は「よみうま!」の発刊回数よりもブログを更新することだったりします。今年は出資馬のデビューも期待できるので更新回数が2011年を下回ることはない・・・はず。
周回遅れ
まさかの周回遅れで菊花賞について。
三冠達成を見届けるべく菊花賞観戦のため京都競馬場に行ってまいりました。とはいいつつ、4月から関西に住まいを移しているので単に隣の県までちょっと足を延ばした程度でございますがね。
競馬を見始めて早15年。その中で菊花賞に無事辿り着くことができた二冠馬は03年ネオユニヴァース・05年ディープインパクト・06年メイショウサムソンの3頭。秋初戦で春は易々と御したはずの相手に後れを取り、結果的に「二冠馬なれども絶対ではない」というムードをファンや他陣営に植えつけた状態で本番を迎えることとなったネオユニヴァース・メイショウサムソンに対して、ディープインパクトの如くライバルとの力の違いを秋始動戦でまざまざと見せつけたオルフェーヴル。その三冠達成は菊花賞前の他陣営から発せられたコメントや単勝支持率58.3%というシンボリルドルフ以上の支持率で迎えたファンの期待に表れている通り、かなり濃厚と考えられていた。唯一懸念材料を挙げるとすれば、やはりそれは他馬ではなく自身の内面。新馬戦1位入線後に池添騎手を振り落した出来事は某国営放送において何度も全国ネットで流されたこともあり今やすっかり有名だが、その新馬戦後もオルフェーヴルはゲートで鳴く、尻尾を振る、レースに集中しようとしない、といった精神面の若さを見せ続けている。その模様は各レース後の池添騎手のコメントからも見て取れる。
2着 オルフェーヴル(池添騎手)
「今日は逃げた馬にうまくペースを作られました。ゲートで鳴いたり、道中も外へ切れようとしたり、まだ幼いところもあります。リングハミの効果もあったし、次に繋がるレースは出来たと思います」
【芙蓉S】(中山)〜ホエールキャプチャ 逃げ切って連勝
10着 オルフェーヴル(池添騎手)
「まだ馬が子供っぽいですね。ゲートの中で鳴いていましたから。スタートは元々速くないのですが、出遅れてから内ラチに張り付いて行こうとしたので、立て直そうとしたらガッチリと噛んで引っ掛かってしまいました。リズムがバラバラになり、直線でも尻尾を振っていました。新潟で新馬勝ちした時のようにリラックスして走ってくれたらいいのですが…。持っている能力はいいモノがあるので、精神的に成長してくれればいいと思います」
【京王杯2歳S(GII)】(東京)〜グランプリボス 重賞初制覇
2着 オルフェーヴル 池添謙一騎手
「前走は出遅れた後、馬を前に出して行って折り合いを欠きましたので、今日は折り合いを重視して、ゆっくりとレースを運びました。リラックスしたら直線はさすがにいい脚を使ってくれました。今後はもっとリラックスして走れるようになってくれたらいいですね」
【シンザン記念】(京都)〜レッドデイヴィスが早めに抜け出し、初重賞V
3着 オルフェーヴル 池添謙一騎手
「厳しいレースでした。ゲートはこれまでで一番よかったのですが、馬の後ろでも折り合いを欠くぐらいギリギリのレースでした。下りで一気に動いたら、我慢したことが台無しになってしまいますからね。今はひとつひとつ教える段階で、今回のレースもこの馬の実になってくれればと思います」
【きさらぎ賞】(京都)〜トーセンラーがゴール前でとらえ、初重賞V
新馬戦後、オルフェーヴルは4レースに出走するも残念ながら勝ち星を挙げることは叶わなかった。上述した通りオルフェーヴル自身が持つ精神面の未熟さにその原因の一つがあることは間違いない。生まれつき高い素質を持ちながらも、それをいざレースで100%発揮することができるかどうかは全く別問題。気性・体質といった馬自身の内的要因のほかに、環境・ローテーション・天気といった外的要因まで、それこそ枚挙に暇がないほどの条件がが複雑に絡まりあって一頭の馬の競走成績というものは作られていくのである。どこかで一度そうした歯車が狂ってしまったことによって、素質の高さは万人に認められているにも拘らず、クラシック路線に乗るどころか1勝するのさえやっとであったという競走馬は毎年のように現れる。ともすれば、オルフェーヴル自身も一歩道を間違えればそうした馬達の一頭に数えられることになっても全くおかしくはなかった(現に僕はスプリングSの前までまさにそう思っていた)
だが何よりもオルフェーヴルの可能性を信じていた陣営はそうしたオルフェーヴルに粘り強く接し続けた。何よりも騎手の池添は根気強くレースを通しての?教育?を行ってきた。レースのたびに池添騎手はオルフェーヴルの持つ課題を指摘、そしてその修正内容についてコメントしているが、ちょっとしたミスによって乗り変わりが行われる近年の競馬界にあってある意味これは異例とも言える。こうした池添の姿勢を全面支援したのが調教師・池江泰寿である。兄ドリームジャーニーとのコンビを通して培われた池添とこの血統への信頼感はたとえ結果が出なくとも揺るぐことはなかった。乗り変わりへの不安がなかったからこそ、池添はレースを通じてオルフェーヴルと向き合い続け、この馬の将来に一番必要なことを教えていくことができたのだ。
そしてこうした陣営の方針がいよいよ花開いたのがスプリングSであった。
レース後のコメント
1着 オルフェーヴル 池添謙一騎手
「普段の調教とレースで、ひとつひとつ教えてきたことが実を結びました。もともと折り合いが心配な馬でしたが、今日はスムーズにいいリズムで走ることができました。今日はしっかりと結果を出すことができましたし、本番につながるレースができましたので、これからが楽しみです。まだ重賞をひとつ勝ったばかりですから、お兄さんと比較するのはかわいそうですが、これからはドリームジャーニーの弟ではなく、『オルフェーヴル』と呼ばれるようになると思います。本番に向けて順調にいって欲しいですね」
池江泰寿調教師のコメント
「今までやってきたことが実を結びました。レースのレベルが上がった方が競馬もしやすいですし、今日は鞍上も意識的に早めに動いたようですが、まるでドリームジャーニーを見ているようでした。左回りに関しては『京王杯2歳Sの一戦だけでダメと決めつけてはいけない』と鞍上も言っていました」
【スプリングS】(阪神)〜オルフェーヴルが皐月賞に名乗りを上げる
「馬は一月で変わる」、昔の誰かエロイ人が言っていた気がする言葉を示したスプリングS制覇であり、その後オルフェーヴルはご存じの通りクラシック第一冠目となる皐月賞を圧勝、史上7頭目の三冠馬へと階段を上り始めるのである。
三冠馬となったことにより、これからオルフェーヴルの比較対象は先達三冠馬になることは避けられない。個人的には既に菊花賞の時点で競走馬としてはある種の完成系を示していた先達たちに対し、オルフェーヴルはまだまだ幼いといった感が拭えないかなと。菊花賞後に池添騎手をまたしても振り落した出来事や菊花賞の道中フレールジャックやロッカヴェラーノに外から寄られると頭を上げて嫌がるしぐさを見せるなど一時よりは大分マシになったとはいえ改善点を挙げるとするならばまだまだきりがない。
そしてこちらも比較対象となるであろう兄ドリームジャーニーとの関係を考えたとき、兄最大の弱点でもあった馬格が夏の成長を経て一回り大きくなった時点で斤量泣きに怯える心配もない分、古馬になってもこのまま順調であるならばオルフェーヴルの方が綺麗な成績に収まる可能性が高いかなと。そしてこの全兄弟の関係はアグネスフライトとアグネスタキオンの関係にもどこか似ている。まあだからと言って、今年サンデーRで募集され大人気を博したオリエンタルアートの10がアグネスサージャンになるというわけじゃないよという何ともよくわからないオチで久しぶりのエントリ終了。
ひとくち、始めました
ついにこのタグを作る時が…。ちなみに「社台・サンデー」というタグも考えましたが、これを採用してしまうといつの日か他のクラブに入ることが前提になってしまう気もするので止めましたwキャロットあたりにドーベル一族が来たら考えますがね…(変なフラグ。
競馬を見始めて早15年。いつの日か自分でも馬を持ちたいものだと思ってきましたが、社会人2年目の今年、ついに念願叶いまして一口馬主ながらも馬を持つことになりました。いよいよ競馬に対して新しい第一歩です。
申し込みの内容は以下の通りでした
第一希望:シンハリーズの10(父ウォーエンブレム) 栗東・松永幹夫厩舎…○
第二希望:エンドレスビジネスの10(父ゴールドアリュール) 栗東・浅見秀一厩舎
第三希望:ミセスペニーの10(父New Approach) 栗東・大久保龍志厩舎
というわけで、記念すべき初出資馬はこの馬でございます。
そんなこんなで無事第一希望が通りました。完全新規の身なので投函後は日々更新される応募状況にただただ怯えて暮らす日々でしたが、幸か不幸かシンハリーズの10は第一希望票には出てくることもなくそのままゴールイン。
ちなみに他の候補馬としては
- スプリングチケットの10…完全新規では厳しそうなので撤退
- レースパイロットの10…血統厩舎魅力も、どうもBT系にありがちな腹袋の厚さが牝馬で嫌ってみた
- オンブルリジェールの10…現時点で440㌔。気持ち立ち気味の繋はタキオン仔だけに怖いので回避
そんなこんなで選ばれたのがシンハリーズの10。関西の牝馬で自分が出資できる範囲としてはなかなかの馬に出資することができたのではないかなと贔屓目ながらも感じています。
POGであったり、興味本位から一口のカタログを取り寄る程度のことはこれまでもしてきましたが、ここまで真剣に1歳馬の検討をする機会は皆無。そんなわけで確固たる方法などあるはずもなく、完全に今年は手探りのまま進みました。そんなわけで明確な出資理由を書けと言われても悔しいですが第六感的になってしまうのが辛いところ。今後しっかりと勉強し、また試行錯誤を重ねてしっかりと自分の言葉で出資理由について語れるようになりたいなと。
とにもかくにも、今は無事にシンハリーズの10がデビューをしてくれることを祈るのみです。そして願わくば1勝を。
POG2010-2011反省会
BrainSquall主催のPOGに2011-2012シーズンも参加させていただくことになりました。今年も昨年同様指名理由を淡々と書いていこうと思うが、その前に一応2010-2011シーズンの反省的なエントリーを。こういうのはドラフト前にやっておかないと全く意味がないんですけれどね…。
まず、シーズンそのものを振り返ると順位自体は2位とそれなりの結果。ただ、中身としてはレーヴディソールに実質おんぶにだっこ状態での2位。実際レーヴディソールの故障以降はポイントを稼げるほとんど馬がいなくなり、1位を追撃するどころか2位を死守するので精一杯という始末。期待に胸躍らせるはずのクラシックも結局は完全に蚊帳の外状態で終わってしまい、個人的にはかなり不完全燃焼に終わってしまったシーズンだったかなと。
レーヴディソールに限らず、2010-2011シーズンは1年間を通して指名馬の故障・体調不良に悩まされたシーズンであった。大学仲間と開催しているPOGでは1位のインパクトゲーム、2位のダノンバラードがともに故障。BrainSquall主催POGでも黄菊賞でリベルタスを相手にしなかったミッキーマスカットがレース後故障、500万条件でロッカヴェラーノに勝ったルルーシュが体調不良でトライアル使えず、体質の弱さも覚悟しての指名であったテンペルは3月末にデビューこそできたが使えたのは結局2戦のみ。これらの馬は順調に使えてさえすればもっとポイントを稼げていたと思うだけに、?順調に使える?ということが当たり前のようで何よりも大事なのだと改めて感じさせてくれるシーズンだったかなと(この辺りは一口をしている人には余計に感じられるのかもしれませんが)
さてそれでは個別の馬の反省を(指名理由はこちら参照)
1位:レーヴディソール
指名時はネガティブなことを書きまくってしまい本当に申し訳ございませんでした(土下座)。「Fantastic Lightでナイアガラ、ファなんとかさんでレーヴダムール、ボリクリでアプレザンレーヴを出す母なんだからタキオンならどんだけだよwww」というやや浅はかな考えも含んでの1位指名であったが、それでここまでの成績を出されるともう何も言わないし何も言えない。
にしても、散々言われた牝馬の1・2位指名だったが、やっぱり牝馬は牡馬よりも出自が求められるという自説にある種の確信が得られたか。牡馬はどこの馬の骨かわからない奴も出てくるが、牝馬は本当にプロフィールがしっかりとしている、所謂?良家のお嬢様?がそのまま走る可能性が高いのではないかと。2011-2012シーズンのドラフトで母ビワハイジを1位指名した(じゃんけんで負けたけれど)ことも、変に捻った指名ではなく牝馬に関しては本当に単純に行った方が正解に辿り着きやすいという理由だったり。
2位:アドマイヤセプター
母は三歳の春時点でやや荒っぽさを残していた点がやや気にかかる。完成がちょっと遅れるかも。
娘は荒っぽさとかそういうレベルではなかった。新馬戦の走りは、この先どこまで上り詰めるかという期待と共に、いつこの気性が爆発してしまうかという危うさを併せ持ったレース振り。その不安は直後の札幌2歳Sですぐに現実のものとなり、エリカ賞・こぶし賞とちんたらした条件戦では気性に難しさを出してレースにならず。かと思えば、フェアリーSのような厳しい流れのレースでは好走。そのポテンシャルの高さは明らかなだけに非常にもどかしい結果に終わってしまった。馬体の維持含めても滞在競馬ならば力を発揮しやすいと思われるタイプだけに、姉同様に札幌あたりで復帰するようなら注意かなとも。そういえば、この馬って結局朝青竜は関わっているのか?
3位:テンペル
何か始動は遅くなるという話も出ているようですが、アドマイヤコマンドを指名していた自分にしてみれば3月阪神デビューでも全然OKです。
てなことを言っていたら、本当に3月阪神デビューになってしまった。言葉って不思議な力あるんですねぇ…。てなわけで、今年の指名馬は全馬年内デビュー、そして勝ち上がり、あわよくば重賞出走くらいを期待しよう。
4位:ルルーシュ
札幌2歳S好走→年明け東京まで待機というのはまあ想定の範囲内。だがそこから皐月賞トライアルどころか青葉賞(F-G?)すら出走できなかったのは完全に想定の範囲外。体質の弱さがつくづく惜しまれる。復帰してもカズヲ名物の条件戦連勝→OP昇格→放牧→条ryのスパイラルモードにならないことを祈る。
5位:ハンドインハンド
500キロを超える馬体は迫力十分だったが、若干持て余し気味だったかなと。ジョッキー調教師ともに長い距離向きだと新馬戦の頃から言及。そのため勝ち上がった後の条件戦も2000m以上を中心に使われていたが、もともとエンジンの掛かりが遅いことに加えてこの時期の長距離条件戦はスローペースになりがちな点も重なり、先行こそすれども瞬発力に優れた馬に後れを取ると。個人的には1800mあたりで差す競馬を試してほしいのだが…。
6位:シャイニンオーラ
結果的に松田博厩舎の牝馬を狙うという路線自体は正しかったと胸を張って言えるが、いかんせん馬主の運がヴィクトワールピサに全ていっていた。キンカメ産駒自体が08年産は今一だったことを除いて、個人的にはちょっと捻りすぎて失敗した例。これだったら素直に評判に乗っかってマルセリーナで良かったと。この辺りは反省材料。
7位:ダノンシャーク
レッズフィールドに限らずどうもこの一族は勝ち味に遅い傾向をみせるだけにディープの力を借りて瞬発力を強化するイメージだったが、結局未勝利脱出に時間を要した。そのため、無駄なレースを走らされクラシックへのローテが厳しくなる悪循環。プレイを相手にしなかったつばき賞、厳しい流れの中で粘り強く伸びた若葉S、直線での不利さえなければと思わせたプリンシパルSなど実力は確かなだけに、もう少しだけ運に恵まれていればなと。
8位:ミッキーマスカット
牛だと思ったら馬だった。しかも結構速い馬だった。最初は巨漢馬の例に漏れず不器用なレースをしていたがレースを経験するごとに内容は上昇。その結果がリベルタスを返り討ちにした黄菊賞なわけだが、ディープの庭となりつつある京都芝中距離でスニッツェル産駒が勝つというのは結構凄いことだよねと今改めて思う。
9位ヴィクトリアピーク
この馬でダメだったらもうA.P.Indy系は日本じゃダメだ…くらいに思っての指名だったがやっぱりダメだった。もうA.P.Indy系は金輪際指名しません。2011-2012シーズンにおいてもMiss Teribleも少しだけ考えていたのだが…。
10位ショウサンガイア
芝でダメならダートで潰しが効きそうという点は魅力的でもある。
芝がダメとかダートで潰しが効きそうとかそういう次元ではなく問題点は厩舎だったのか。矢作厩舎から加藤敬厩舎に転厩したとたんに好走。そうなると、「矢作厩舎だから」という理由で指名した自分の立つ瀬が完全にないわけだが。しかし、矢作厩舎の何が気に食わなかったのだろう。あのテンガロンハットだろうか。
社台SS供用種牡馬編纂(後編)
◆社台SSが導入した主な種牡馬〜00年代◆
00年代の社台SSは言うならば逆風状態から始まった。期待外れに終わった種牡馬なら、それこそ前編・中編で紹介したように星の数ほど社台SSにも存在した。だが、ノーザンテーストを得てからの社台SSは80年代後半に導入したリアルシャダイを初めとして、90年代前半トニービン、そしてサンデーサイレンス導入と続けざまにスマッシュヒットを決めた。まさに、強い追い風をグループ全体が受けていた状態であったのだ。しかし、00年に入るとその風向きに少しずつ変化の兆しが見え始める。その変化が初めて表れたのが00年のトニービン、リアルシャダイがそれぞれ迎えた死亡・種牡馬引退である。続く01年にはノーザンテーストが種牡馬引退、そして02年には大黒柱サンデーサイレンスをまだ18歳という若さにも関わらず失うという衝撃に至る。80年代〜90年代の社台グループの隆盛を支えた種牡馬が僅か2年間で全頭、生産の表舞台から姿を消していったのである。
また、彼らの次代を担うと期待されていた種牡馬も相次いでアクシデントに見舞われた。02年にはエルコンドルパサー、エンドスウィープが若くして死亡。そして03年にはサンデーサイレンスの後継種牡馬候補としてまさに三顧の礼を持って社台SSに迎え入れられたウォーエンブレムの種付けに、皆さん御存知の通り大きな・・・本当に大きな問題があることが判明したのだ(ウォー様の種付け問題に関してはこっちの記事を読んでね)。
サンデーサイレンス・トニービンを手に入れたことで、一時日高で囁かれたような「量」だけではなく「質」も伴った実績を毎年あげ続けた脅威の90年代が終わり、00年代前半の社台SSは彼らを失ったことによる大きな転換点を迎えていた。何よりも、絶対的存在であったサンデーサイレンスが抜けた穴をどのようにして埋めていくか、それが00年代を通しての社台SS、強いては馬産界全体の課題であったようにも思える。
こうした点から一時的にせよ社台SSの勢いは衰えていくかにも思えた。だが、下記の表から00年以降の「GⅠ勝ち馬の父に占める社台SS供用種牡馬の割合」、また「リーディングサイヤートップ10に占める社台SS供用種牡馬の割合」(手集計なのでミスがあったらごめんなさい)を見るに、むしろその影響力は衰えるどころかサンデーサイレンスが死後一層強まっているように思える。これは一体なぜなのであろうか。後編はそのあたりについてひっそりと考えていきたい。
年 | 全GⅠ数 | 社台SS供用種牡馬 | リーディング |
---|---|---|---|
産駒GⅠ勝ち数 | ベスト10内数 | ||
2000 | 21 | 6 | 5 |
2001 | 21 | 8 | 5 |
2002 | 21 | 9 | 6 |
2003 | 21 | 14 | 6 |
2004 | 21 | 14 | 6 |
2005 | 21 | 16 | 7 |
2006 | 22 | 16 | 8 |
2007 | 22 | 16 | 9 |
2008 | 22 | 22 | 9 |
2009 | 22 | 15 | 10 |
2010 | 23 | 16 | 10 |
まず容易に考え付く要因のひとつとして、単純に社台SSの供用種牡馬数が増加した点を挙げることができる。90年・00年・10年の供用種牡馬の内訳は中編に掲載した表を見ていただくとして、10年に供用された種牡馬数は90年と比較すると13頭増、00年と比較しても7頭増。社台グループのスタリオン事業はこの10年間も拡大一途にあった。だが社台SSは単純に規模の拡大を続けていたわけではない。毎年100頭以上の繁殖牝馬を集めていたにもかかわらずデュランダルが産駒成績が今一つのためか今年からブリーダーズSSに放出されたことから見て取れるように、毎年のように期待の新種牡馬を迎え入れる同スタリオン内での競争は非常に熾烈であり、そしてあくまでも社台グループは供用種牡馬に対してシビアであり続けていることが分かる。
さて、社台SS供用種牡馬の影響力が大きくなった最大の要因として、今回は日本の馬産界における多頭数種付けの浸透という点から論じていければと思う。リース種牡馬・シャトル種牡馬の登場など種牡馬ビジネスは90〜00年代に大きな変化があったことは中編にも記した。だが、最も大きな変化は1シーズンにおける種牡馬の種付け頭数の劇的な増加であろう。
過去、欧米の生産界においては種牡馬の1シーズンの種付け頭数についてはある程度制限されるべきであるという風潮が長く続いた。それはせり市場における産駒の〝価値〟を守るという意味からもそうだが、多くの生産者は「多頭数種付けにより種牡馬自身の遺伝力が低下する」という点を特に懸念していたのだ。そのため一流種牡馬の種付頭数も50頭前後がごくごく当たり前となっていた時代が長く続いた。
そうした風潮に風穴を開けたのがCoolmoreであった。90年代に入ると、Coolmoreによってシャトルスタリオン事業がスタートしたのだ。北半球・南半球では季節が逆という特性を最大限に活かしたシャトルスタリオン事業は、高騰する一方であったシンジケート額を早期回収する有効な手段として一気に各スタリオンの間で普及することになる。これにより一部の人気種牡馬は50頭どころではなく1シーズンに100頭以上の種付けをこなすことがごくごく当たり前になっていく。例えば、世界最高額と言われるシンジケートを組まれたFusaichi Pegasusは北半球・南半球併せて1シーズンで346頭もの繁殖牝馬に種付けをしているのだ。
このようにCoolmoreがまず先鞭をつけた多頭数種付け事業は瞬く間に世界に広がっていくことになった。それは日本の生産界においても決して例外ではない。事実、社台SSに供用されている種牡馬を中心に90年代半ばから一部の有力種牡馬の種付け頭数は急増することになる。
90年代以前、日本においても多頭数種付け自体に対する認識は欧米とほとんど差がなかった。アラブのタガミホマレが270頭に種付けを行った記録も存在するが、サラブレッドに限って言えばフジオンワードが1974年に記録した152頭が長らく記録として残っていたように、どの年も最多種付頭数は多くても100頭前後。さらに、100頭以上の種付けを行った種牡馬が存在しない年もそれほど珍しくはなかった。
だが、Coolmoreの多頭数種付け事業に触発されたか、はたまた獣医面での技術の進歩が背中を押したのか、社台SSが多頭数種付けに乗り出すと状況は一変する。社台SSに供用されている種牡馬を中心に1頭がカバーする種付け頭数は伸び始め、96年、183頭に種付けを行ったサンデーサイレンスにより、ついにフジオンワードが20年以上持ち続けてきた記録が更新されたのである。そしてその後も種付け頭数は伸び続け、00年、またしてもサンデーサイレンスによってついに200頭の壁が突破されたのだ。その後、当時は記録的数字と言われた「種付け頭数200頭」もサンデーサイレンスの後継種牡馬が中心勢力となってからは特に珍しいものではなくなり、10年はキングカメハメハの266頭をはじめとする9頭の種牡馬によって200頭超えが達成されている。このように一昔前では考えられないような数の繁殖牝馬を1頭の種牡馬が相手にすることが可能になったことが、社台グループの資金面に限らず社台SSの競馬界全体における影響力強化に最も貢献していると言えるのではないだろうか。
多頭数種付けについては今も賛否両論が存在する。種付け回数の増加によって種牡馬自身の遺伝力が低下するのではないかという一昔前の批判については、影響が無いことを示す論文が発表されもしたが、ここ10年の社台SS供用種牡馬が出した実績、さらに言えば毎年300頭以上に種付けする(純粋な種付け回数ならそれ以上)シャトル種牡馬の産駒が結果を出し続けていることがそうした批判が意味をなさないことへの何よりの反論となる。アグネスタキオンの死亡時(死因は心臓発作とされる)に言われた、「多頭数種付けに起因される種牡馬の早逝」については両者の間に全く相関関係が無いとは言うことはできない。だが、上記の表「社台SSが導入した主な種牡馬〜00年代」において「死亡」した種牡馬の中で果たして多頭数種付けに死因を起因させることができる種牡馬がアグネスタキオンの他にどれほどいるかという疑問も浮かんでくる。それでは多頭数種付けが可能となったことにより、一部の人気種牡馬に繁殖牝馬が集まることで「血の偏りが生じる」という批判はどうか。
日本競馬が90年半ばから急速にレベルアップしたことは紛れも無い事実であろう。そのレベルアップは調教・育成技術の進歩、円高に伴う良質な外国産馬、優秀な繁殖牝馬導入とほぼ全ての面でのレベルアップによって成し遂げられたものである。そして、そこにはもちろんサンデーサイレンス・トニービンに代表される優秀な種牡馬の存在も含まれている。確かに、それ以前にも日本には優秀な種牡馬が供用されていた。だが、既に述べた通り多頭数種付けに対して生産者側に強い懸念が存在していたことに加え、様々な事情から彼らは1シーズンに多くの牝馬を相手にすることができなかった。例えばノーザンテーストは交配数を増やすと受胎率が落ちる傾向にあるとされ、種付け頭数は毎年60〜70頭前後、一番多く種付けした年でも三桁には届かない98頭であった。またトウショウボーイは軽種馬協会の保有する種牡馬であり、ニホンピロウイナーは馬主の意向から年間の種付け頭数を60頭までに限定していた。そのため、彼らがたとえ今現役の種牡馬であったとしてもサンデーサイレンスのように年間200頭もの種付けを行うことは環境的に難しい。そういった意味ではノーザンテーストは確かに優れた種牡馬ではあったが社台と日高、その差を絶望的なまでに開かせる影響力は無かった(その後、繁殖牝馬となったノーザンテースト牝馬が絶望的なまでの差を作る要因の一つにはなったが)。だが、ノーザンテーストには難しかった多頭数種付けが時代の助けを得たことで歴史的名種牡馬となるサンデーサイレンス、そしてその後継種牡馬たちにはそれが可能となった。ここに90年代以降の社台グループと日高の間で生じた明確な差の最大の原因があり、それと同時に日本競馬の急速なレベルアップの要因も発見することが出来る。
サラブレッドの歴史はその「淘汰」の歴史でもある。優れた種こそが残されるべきであり、それこそが生産者の唯一の目的になってしかるべきである。そのため、1頭の優れた種牡馬の元に繁殖牝馬を大量に集めることは、優れた産駒(=種)を産み出す最大の近道であり至極妥当な判断とも言える。だが、それは同時に他の種牡馬の「機会」を奪うということでもあることを忘れてはならない。事実、日本で供用される種牡馬の数は生産頭数の減少もあり90年ごろの約700頭をピークとして減少一途、10年にはピーク時の半分以下の328頭、その中でも種付けを実際に行った種牡馬となるとさらにその頭数は減り269頭。何度も言うように、「優れた競走馬」を生産することが生産者の目的だとしたら多頭数種付けは圧倒的に正しく、実に合理的な判断である。そして、バブル期とは違い1頭のサラブレッドを売ることの難しさを考えた時、それは仕方が無いことでもある。
だがその性格上、どうしても「馬券」と結びつかざるを得ないのが我が国の競馬の本質であり、それがゆえにファンの存在は有馬記念の存在に代表されるように古くから重視されてきた。ちょうど「興行」と「スポーツ」の狭間で大相撲が揺れている。レースに手が加えられることは言語道断。そして日本競馬の更なる進歩を考えたとき、弱者に肩入れすこと、強者に制限を課すことの馬鹿馬鹿しさも十二分に承知しているつもりではある。だが、生産においても「手を加える」、すなわち遊び心を披露する余裕すら今の馬産にはほとんど無いのだとしたらそれは少し寂しすぎるのではないかなと個人的には思わざるを得ない。昨今目立つ外国人騎手への騎乗依頼偏重も元々の根は同じだが、競馬に携わる誰もが競馬本来の目的を追求しているがゆえに現実世界のみならず競馬においてもそういった「厳しさ」とファンは向き合っていかなければならないのだとしたら、それを今の時代に趣味として長く付き合っていくにはやや重過ぎるのではないかなと。1900万馬券ではないが、せめて競馬には夢がほしい。だがそれを許すだけの余裕が馬産地にも、そしてJRAにも無くなってきている。
さて、社台SSに話を戻そう。今後10年を考えたとき、早田牧場のようなイレギュラーな事態が発生しない限りは今の社台SSの絶対的優位性が崩れることはない。ラムタラ導入以後、軽種馬協会を除けば現状を打破することができる大物種牡馬を導入する力は日高には最早無い。そして何より、社台SSがサンデーサイレンス死後に築き上げたそのブランドイメージはそう容易く壊れるものではない。「サンデーサイレンス」という最高級のブランドを失った後、社台SSが目指したのはこれまでのように「弾を打つ」ことで再び異能が登場することを待つだけではなく、例えるなら「社台SS」というスタリオン全体をブランド化するという戦略であった。それを推し進める上で戦略上大きく貢献したのがセレクトセールなのである。そこでは有力馬主たちが信じられないような額で社台SS供用種牡馬の産駒を購入していったのだ。
だがそうした戦略には落とし穴も存在する。そうして作られたブランドはサンデーサイレンスのように産駒が実績を残した結果として生まれたブランドと決してイコールではないのだ。極端に言えば、新種牡馬などは産駒がまだ1頭も競走年齢に達していないにも関わらず種牡馬としてのブランドが産まれることもありうることになる。そのため、言わばハリボテ状態にあるブランドを本物のブランドにするべく新種牡馬には初年度から良質な繁殖牝馬を集めることを余儀なくされる。そして、現役時代に活躍した馬ほどこうした循環に組み込まれる可能性が高まる。そして、そのブランドイメージは高すぎる期待やサンデーサイレンスと比較される点で非常に危ういものなのだ。考えてみると何とも不健康な状態である。サンデーサイレンスのように毎年安定して有力馬を複数送り出せる種牡馬はほとんどいない。ほとんどの種牡馬の活躍はどれだけ優秀な繁殖牝馬を集められるか、「数」の勝負となっている。つまりそういう意味では、サンデーサイレンス死後、群雄割拠状態(五十歩百歩とも言える)の種牡馬界を見極め、近年種牡馬ではなくアゼリ、ジンジャーパンチなどに代表される繁殖牝馬の導入に力点を移しつつある社台グループの戦略は圧倒的に正しい。仮にどの種牡馬にもほぼ同じ程度の力があるとするならば、社台SSのブランドイメージを保持する最大のポイントは繁殖牝馬に他ならないのだ。そして社台が躓く可能性があるとするならばその循環が上手く機能しなくなったときなのである。
そうした点を踏まえ、独走する社台を追いかける存在としてダーレー・ジャパンがその対抗軸として名乗りを上げることに期待する声もある。なるほど、確かに規模・スタリオンの急速な拡大体制もそうだが生産馬からもダノンシャンティを出すなどいよいよ軌道に乗ってきた。だが彼らのこれまでの道程を踏まえるに、今彼らが歩みつつある道、すなわち「規模の追求」の先にあるのは所詮社台のカーボンコピーという結果にすぎない。オリジナルが磐石の地位を占めている世界でコピーがそれを超えることがどれだけ難しいかは今更言うまでもない。これまでの日本競馬に対するアプローチをどこで一度見直すことが出来るか、それが彼らが一層飛躍するための鍵となろう。コマンズに繁殖50頭用意などのニュースはよくも悪くも面白い話だと思うのでなんとか結果を出し対抗軸に育ってほしいところだが、さてさて。
謹賀新年
皆様、あけましておめでとうございます。今年も果たしていつ更新できるのかブログ主さえも分からないブログですが宜しくお願いいたします。
昨年の大晦日、2010年を振り返るべく昨年の記事を眺めていたら新年早々こんなことを妄言を吐いていたことに気づきました。。
新年‐Horse Racing Cafe2号店
昨年は4月から社会人になったこと、競馬ブログ界隈でTwitterが流行したこと等々の理由により更新機会が激減してしまいました。今年は最低でも月1回の更新を目指したいなと。
昨年を振り返ると、更新回数はなんと6回。月1回どころか2ヶ月1回ペース。もはやtwitterやら仕事のせいでもなんでもなく、偏にただただ自分の怠惰ゆえにです。振ってもらったネタを未だに積み残している状態だわ、連載終わらず年越しだわ本当に自分は一体何をやっていたんだとひたすら反省あるのみの2010年大晦日になってしまいました。
というわけで、まずは11月中旬から止まっている社台SS供用種牡馬編纂(後編)を1月完成を目指して頑張らせていただきます(何となくid:highrise氏に負けた気がして悔しいですがw。そして、今年も月1回は無理かもしれませんが、まずは昨年同様2ヶ月1回のペースでやっていきたいなと。幸運なことにtwitter上で頂いているNorthern Dancerネタのほかにもやりたいと考えているネタはいくつかあるので。。
社台SS供用種牡馬編纂(中編)
正直前編書いてから次を書くのにここまで時間掛かるとは思わなんだ
◆社台SSが導入した主な種牡馬〜90年代◆
年 | in | out |
---|---|---|
1990 | サッカーボーイ | |
1991 | キャロルハウス | |
サンデーサイレンス | ||
ジェイドロバリー | ||
フレンチグローリー | ||
1992 | ヘクタープロテクター | |
1993 | ドクターデヴィアス | |
1994 | リファーズウィッシュ | ジャッジアンジェルーチ(→レックススタッド) |
メジロマックイーン | ||
1995 | グルームダンサー | |
サクラバクシンオー | ||
トウカイテイオー | ||
フジキセキ | ||
ホワイトマズル | ||
1996 | カーネギー | ミスターシービー(→レックススタッド) |
タヤスツヨシ | ||
ティンバーカントリー | ||
ワージブ | ||
1997 | ダンスインザダーク | フレンチグローリー(→社台SS荻伏) |
ハートレイク | ||
ペンタイア | ||
1998 | エリシオ | キャロルハウス(→愛) |
ジェニュイン | ドクターデヴィアス(→愛) | |
バブルガムフェロー | ヘクタープロテクター(→英) | |
フサイチコンコルド | リファーズウィッシュ(→仏) | |
1999 | グルームダンサー(→英) | |
ハートレイク(死亡) | ||
ワージブ(死亡) |
93年8月13日、社台ファームを名実ともに日本一の牧場に導いた吉田善哉氏が死去した。その後、社台ファームは長男照哉氏が率いる社台ファーム、次男勝己氏が率いるノーザンファーム、そして3兄弟による共同経営というスタイルを採用した白老ファームの3牧場にそれぞれが分割されることになった(その後、96年に3男晴哉氏が中心となって追分ファームを設立)。それと同時に社台SSも3兄弟による共同経営にシフトしていくことになる。
大黒柱であった善哉氏の死去後も、基本的に“社台グループ"の種牡馬戦略が大きく変化することはなかった。「生産者は預言者でなくてはならない」、この言葉に示されている善哉氏の理念を常に念頭に置き、社台グループ種牡馬事業の中心的役割を果たした照哉氏はサンデーサイレンス、トニービンと大当たりを引いた後でさえもそれに安住することなく、ペンタイア、エリシオなどまさに休むこと無く次の弾を打ち続けたのである。
さて、今回のエントリーでは「社台SS供用種牡馬編纂(中編)」ということで90年代の社台SSの流れを簡単に上の表にまとめさせていただいた。その中で、今回は90年代の社台SSの特徴として2つの事象を取り上げさせていただきたいと思う。
まず、1つ目に挙げるのは日本で現役生活を送った競走馬の本格的な社台SSでの種牡馬供用開始である。前回のエントリーで述べたとおり、80年代の社台SSにおいては善哉氏の方針からか自身の牧場で生産された活躍馬でさえも供用することはなかった(言及が遅れたが、ここで言う社台SSとは早来の社台SSを指す。社台SS荻伏ではそれこそ80年代から内国産種牡馬も供用されている。ex.ギャロップダイナ、ニチドウアラシなど)。その唯一の例外ともいえる存在が三冠馬ミスターシービーであり、その導入が発表された時は他牧場はおろかミスターシービーの生産者・馬主である千明牧場、そしてあまつさえ身内からもその決定は驚きを持って受け止められたのだ。だが90年代、特にサンデーサイレンス産駒が引退、種牡馬入りを始めた95年以降になるとスタリオン内における内国産種牡馬の割合が徐々に高まり始める。
上の表は93年(本当は90年のデータが欲しかったのですが見つからず。サーセン)・00年・10年の社台SSにおいて供用されている種牡馬の一覧である(赤字が日本で競走生活を送った種牡馬)。93年時点において社台SSで供用されている種牡馬はミスターシービーとサッカーボーイの僅か2頭のみ、割合にして2/16。それに対してサンデーサイレンス産駒の種牡馬入りが続々と進んだ90年代後半を経た00年になると13/22と半数を超える。そして、10年には24/29とほぼ9割に達するに至る。ちなみに24頭の中でサンデーサイレンス直仔種牡馬は11頭。この動きについては後編で扱いたいと思うのでこの辺りで勘弁して頂戴。
90年代の社台SSの2つ目の特徴は種牡馬入替の積極化である。国内の他スタリオンへの移動ももちろんだが、ここでは主に他国への輸出を取り上げたい。
種牡馬輸出積極化の一因としてシャトル種牡馬の実施、そして種牡馬のリース供用の開始がまずは挙げられる。上記の表では頭数が多くなってしまうため「in」「out」の項目ではシャトル種牡馬をあえて省いているが、社台SSも97年にヘクタープロテクター・グルームダンサー・ワージブをオーストラリアに、ペンタイア・カーネギーはニュージーランドにそれぞれシャトル一期生として送り出している。
またシャトル種牡馬に関連する形で種牡馬のリース供用の機会も増加し、社台SSに供用された種牡馬でこそないがデインヒル、ラストタイクーン、サンダーガルチといった海外の一流種牡馬が日本でも単年度ながら供用されるに至っている。デインヒル、ラストタイクーンなどは日本に新しい血が導入された例だが、その反対、つまり日本から他国へリースという形で血の還元を行った例ももちろん存在する。例えば社台SSからは98年からイギリスで2シーズン供用されることになったヘクタープロテクターを初め、00年代に入るとティンバーカントリー(UAE)、アグネスワールド(英)、ファルブラヴ(英)などがリースとしてそれぞれ海を渡っている。
こうしたリース方式での種牡馬供用のケースが増加した理由としては、導入側にとっては完全買取ではないため導入に際して掛かる費用を安く抑えることができるという点がある。また種牡馬を所有する側にしても完全売却となると躊躇われるが、リース供用という形式を採用することにより種牡馬にはリース先で今までとは異なる環境・血統の繁殖を提供することができる。そして自身の種牡馬に新しい可能性を与えること、すなわちそれは種牡馬の価値をさらに高めることにも繋がるというメリットが存在するのだ。
旧来、日本の馬産界は一度日本に輸入した種牡馬を再び輸出することについて積極的であるとは決して言えなかった。ニッポーテイオーを送り出したリィフォーなどを再輸出した例こそあれど、「輸出後に産駒に走られたら見る目がなかったと思われて恥ずかしい」、「日本でさえ失敗した種牡馬なのだから海外でもどうせ失敗するに決まっている」、こうした後ろ向きな考えに縛られ気味であった生産者たちは次から次へと諸外国から新しい種牡馬の購入こそ行うが、そうした種牡馬の産駒成績が期待外れであっても再輸出などで種牡馬に新しい活躍の場を提供することはなく、廃用処分にしてしまうケースが多々見られた。また、ノーザリーのように13億円での買戻しオファーがあったにも拘らず渋ったため、売却の時宜を逃してしまうケースも存在した。
だが、こうした生産界の考え方・慣習に常々異議を唱えていたのが吉田善哉氏であった。そうしたシーンは吉川良氏の「繋」にも描かれている。
もし買戻できたら売ったほうがいいね。馬は買ったり売ったりしなければいけないんだ。先に見つけて買うのも見識なら、売るのも見識なんだから。
競馬の賞金だけでペイすると考えているのはこの産業の間違いだ。ホースマンというのは馬喰なんですよ。……馬喰なんていうとみんないやがるけれど、ぼくは無理して使っているよ。牧場屋には馬を通じてしかお金は流れてこない。馬以外に仕事をやってないんだからね。
こうした善哉氏の考えがよく現れた出来事がWajimaの売却ではないだろうか。73年、善哉氏は他の米国人3人とシンジケートを組む形(共同所有)を取り、キーンランドイヤリングセールでBold Rulerの牡馬を当時のレコードに相当する60万ドルで落札した。その後、その牡馬は日本の名横綱輪島にちなんでWajimaと名付けられ、トラヴァーズSを制するなどの活躍をしエクリプス賞の最優秀3歳馬を受賞、その価格・馬名に全く恥じない活躍をすることになる。そして、4歳になったWajimaは720万ドルというこれまた当時の世界レコードに相当する金額で種牡馬シンジケートを組まれたのだ。Wajimaのシンジケートへの売却は当時の社台ファームにとって大きな意味を持っていた。ガーサント以後核たる種牡馬の不在で苦しんでいた70年代の社台ファームにあって、その後の飛躍に繋がるより高い水準の種牡馬、繁殖牝馬の導入を可能たらしめたのは間違いなくWajimaの売却資金のおかげでもあるのだ。
善哉氏がこうして売却を行ったのはWajimaだけではない。日本に一旦は種牡馬として導入したハンターコム、レイズアボーイは他国からオファーの声がかかるとその血統的価値が損なわれないうちに早々と輸出の決定を下している。また、自身が馬主として所有していたFlirting Around、Silky BabyなどはWajima同様に高く売れるうちにあっさりと手放している。そこにあるのは自身の牧場の血統改良ももちろん大事だが、高く評価してくれる、高く買ってくれる者がいるうちに売るという、ある意味で非常にシンプルかつ馬産という特殊な産業にあってはややもすれば非常なまでにビジネスライクとも言える考え方。すなわち、“馬喰"に徹した姿でもあると言えるのではないだろうか。
こうした考え方は息子である照哉氏にもしっかりと受け継がれている。それどころか善哉氏の死去以後、社台SSは種牡馬の導入のみならずシャトル種牡馬、リース供用など種牡馬ビジネスが多様化する中で、輸出にも一層積極的になっているようにも思える。その中でも90年代に輸出された代表例として、キャロルハウスとドクターデヴィアスの輸出をここでは取り上げたい。
94年に産駒がデビュー、初年度からイブキタモンヤグラ・エイシンサンサンなどの活躍馬を送り出したキャロルハウス、そして97年に産駒がデビューしたばかりのドクターデヴィアスの売却が行われたのは98年である。一昔前であれば、初年度産駒から重賞勝ち馬が出た種牡馬、まだ産駒がデビューしたばかりの種牡馬をこのようにすぐに海外に売却するといったことは考えられなかった。だが98年という時代を考えれば売却に至った事情もうっすらと浮かんでくるか。
92年トニービン、93年ブライアンズタイム、とりわけ94年サンデーサイレンス産駒のデビューは競馬界、生産界が一変したといってもおかしくはないほどの衝撃を与えることになる。彼ら御三家の産駒は早くから勝ち上がり、クラシックを総なめにし、古馬になってもその競走能力は衰えることは無かった。早熟性とそれを上回る成長力を持つ種牡馬に対し、仕上がりが遅めのキャロルハウスなどヨーロピアンタイプの種牡馬は自ずと厳しい戦いを強いられることになったのだ。
さらに景気低迷による馬主側の厳しい懐事情の影響も大きかったか。投資を早く回収したいという需要の流れに生産者側も応えた結果、早熟色の強い種牡馬の人気が高まるとともに、種牡馬サイクルの早期化からどうしても初年度産駒に力を入れざるを得なくなったのだ。確かにキャロルハウスは初年度から小倉3歳Sを制したエイシンサンサンを出し、ドクターデヴィアスも初年度産駒からそこそこ健闘は見せている。だが、そうした環境にあって2頭とも生産者を惹きつけるだけの武器を持っていなかったことも事実である。御三家の産駒がデビューした後もメジロライアンなど続々と新星が産駒デビューを迎えた種牡馬市場において、これから良質な繁殖牝馬が2頭に回ってくることが難しいことは自明の理。そこに舞い込んだ2頭へのオファー。オファーが到着した時点で2頭の売却を決断することは照哉氏にとって決して難しくはない決断だったのではないだろうか。
さて、今回も無駄に長くなってしまった。一応後編に続くのだが、これからタクティクスオウガやるので完成はいつになるかね…。